1 私の経歴
2 全動労とはどういう労働組合か
3 私たちは、分割民営化になぜ反対したのか
4 分割・民営化に反対する運動についての全動労の方針と運動の内容
5 私たちに対する差別の実態とこれを是正するためのたたかい
6 分割・民営化から20年後の現状はどうなっているか
7 採用差別に対する全動労の要求と方針、地労委命令から最高裁判決までの経緯について
8 なぜ、被告を相手にした損害賠償請求訴訟を提起したのか
1 私の経歴
(1) 私は、昭和32年(1957)年7月、国鉄に職員として採用され、仙台鉄道管理局 長町機関区に就職しました。その後、整備掛・機関助士・電気機関助士・電気機関士として働いてきました。
その後、国鉄の分割・民営化に伴い、昭和62年(1987年)4月1日に日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)の職員となり、平成10年(1998年)7月、JR貨物会社を定年退職しました。
(2) 私は、国鉄に採用されると同時に動力車労働組合(動労)に加入し、昭和34年(1959年)から昭和48年(1973年)まで、当時の動労・長町支部の青年部役員、支部執行委員、書記次長、副委員長を歴任しました。
昭和49年(1974年)には、全国鉄動力車労働組合(全動労)仙台地方労働組合の結成に参加しました。そして、同年5月から平成元年(1989年)まで、同地方労組執行委員長を、昭和62年(1987年)3月から平成元年9月まで、全動労東日本地方本部の執行委員長、平成元年(1989年)年9月から平成11年(1999年)8月まで、全動労中央本部執行委員をつとめました。
平成11年(1999年)9月に全動労が他の2つの組合と組織合同して全日本建設交運一般労働組合(建交労)を結成しましたが、私は、同年9月から平成13年(2001年)12月まで
、建交労全国鉄道本部執行委員長をつとめました。
その後、平成13年(2001年)12月から建交労全国鉄道本部の顧問、平成16年(2004年)12月から建交労全国鉄道本部の特別執行委員に就任し、現在に至っています。
2 全動労とはどういう労働組合か
全動労は、昭和49年(1974年)3月に結成されました。動労は、昭和49(1974)年7月の参議院議員選挙に当時の執行委員長を組織内候補として社会党から立候補させることを決定し、昭和47年(1972年)ごろから、組合員一人当たり20人の票読みや選挙資金2千円の強制徴収を組合員に押しつけました。
これに対して、全国の組合員から、憲法に保障された思想信条の自由と政党支持の自由を侵すものであると反対の声が上がりましたが、動労本部は、機関決定違反という理由で、約400人の組合員に対して除名などの処分を行いました。
また、動労は、札幌や竜華など組合民主主義を守る組合員が多数となった地本や支部の事務所を暴力的に襲撃したり、全動労組合員に対する集団的な「追及行動」を全国で行いました。
動労から処分を受けた組合員や組合民主主義を守ろうという組合員は、動労による暴力的な「追及行動」にひるまずに、自らの労働条件を守ることと鉄道の安全輸送確保、ローカル線を守るために新たな労働組合をつくろうと結成した労働組合が全動労です。 全動労は、動力車の基地である「機関区、電車区」などの運転士や車両の検査修繕を行う労働者約3500人によって組織されました。列車の先頭になって走る機関車の運転や検査修繕の仕事に誇りを持ち安全輸送の責任を果たすためにまじめに仕事をすることを組合の方針として運動してきました。
また、「職場に団結を、地域に統一を」というスローガンを瞳のように大切にし、鉄道業務にまじめに取り組むことを基本に、公共鉄道の再生と国民生活擁護、平和と民主主義を守るために真摯になって取り組んできました。
3 私たちは、分割民営化になぜ反対したのか
私たちは、国鉄の分割民営化に対して一貫して反対してきました。その理由は、第1に、国鉄の分割民営化は、国鉄労働者の首切りにつながるからです。第2に、儲からない地方交通線を廃止し地域住民の足を奪うことになります。第3に、民営によって利潤追求が優先されると、安全輸送という原点が脅かされるおそれがあります。第4に、国民の共有財産である国鉄用地や設備を大企業に売り渡し、もうけの道具にされてしまいます。
今年の4月で国鉄の分割民営化から20年が経ちました。20年を振り返ってみて、私たちが国鉄の分割民営化に反対したことは今でも正しかったと確信しています。そこで、この機会に、あらためて私たちが当時、どのような考えにもとづいて国鉄の分割民営化に反対したのか、私たちは、国鉄を公共輸送機関としてどのように再生させようとしていたのかという点について、詳しく述べることにします。
(1) 国鉄の分割民営化の経過とそれを推進した人々
「分割・民営化」が行われる過程について簡単に見てみますと、1980年代に入って、国鉄赤字論や国鉄労働者の「ヤミ・カラ」「国賊論」等がマスコミを中心に喧伝されました。
そのなかで、第二次臨時行政調査会(第二臨調、会長・土光敏夫経団連名誉会長)発足(1981年3月)、第二臨調が「5年以内に国鉄分割・民営化」するという基本方針を発表(1982年7月)し、国鉄監理委員会が発足(1983年6月、委員長・亀井正夫住友電工会長)するなどの中で、特に、国鉄労働者と国民を分断するような攻撃が執拗に行われました。
第二臨調は、財界人などを中心として構成され、国鉄監理委員会は、第二臨調の主要メンバーにより構成されました。
第二臨調と国鉄監理委員会は、国鉄の過去債務や構造的欠損など、国鉄財政悪化の真の原因についての解決策を示すことなく、分割・民営化路線先にありきという方針を示しました。それは、国民の共有財産を解体し、国民生活に直結する「不採算部門」を切り捨て、国鉄労働者9万人の首切りを行い、その上でもうかる部分だけを財界・大企業が喰いちぎってゆくものでした。
国鉄の分割・民営化を推進したメンバーを見ただけでも、国鉄の分割・民営化が労働者や国民の要求に基づくものとはとうてい言えないことは明白です。
(2) 国鉄の「赤字」はどうしてできたのか
国鉄の分割民営化の理由として、国鉄の長期債務の解消ということが強調されていました。しかし、国鉄の「赤字」がなぜ生まれたかということを考えれば、国鉄の分割民営化によって解決するような問題ではなかったことがわかります。
@ 国鉄は、昭和39年(1964年)度までは、単年度収支が黒字で経営されていました。しかし、昭和40年(1965年)度から赤字となりました。その原因の一つとして、全国各地の新線建設が国鉄の費用で行われ、特に東海道新幹線建設は独立採算性ということで、借入金で着工され、約2兆6千億円がつぎ込まれたことがあげられます。その返済が始まってそれ以降「赤字」が続くようになりました。
A もう一つは、昭和20年(1945年)の終戦にともなって、満州鉄道などからの引き揚げ者を受け入れることになり、職員数が約60万人にもなりました。その後退職や「合理化」などによる人減らしが進み、昭和55年(1980年)には、約41万人になりました。
退職職員が多くなりそのためによる、年金などの「追加費用」は、昭和32年(1957年)度には約27億円でしたが、昭和60(1985)年度には約4,581億円までふくらみました。
これらの路線建設費用や「追加費用」などを、借入金で賄うことにより、利子払いが年に1兆円にもおよぶ膨大な額なり、国庫助成もありましたが、長期債務残高は、昭和61(1986)年度末には、約25.5兆円となったのです。
B 国鉄の「赤字」については、国の公共交通政策に問題があったといえます。
国鉄は、「公共の福祉の増進に寄与する」という役割がありましたが、政府は、モータリゼーション政策を遂行し、道路建設費の80%には国費は投入するが、鉄道建設費の90%は、借金で行うという施策をとりました。その結果、借金を返すために新たな借金をするということを繰り返して、国鉄財政が悪化してきたのです
。
(3) 公共輸送機関としての国鉄の再建に関する全動労の考え方と方針
全動労は、昭和49年(1974年)の結成以来、国鉄の民主的再建の方針を確立して運動してきました。
政府・国鉄による昭和44年(1969年)から「五次」にわたる再建計画は、日本列島改造
ブームに乗って過大な投資を行い、借入金と赤字を増大させるものとなり、立て直せるものではありませんでした。
全動労の民主的再建の方針では、国鉄「危機」をつくり出した真の原因を国民的に徹底的に明らかにすること、その責任が政府・財界にあることを明確にする必要があると考えてきました。
国鉄危機の真の原因は、自民党政府の公共交通軽視・無視の無責任な交通運輸政策にあります。(2)で述べました通り、道路建設費の80%には税金を投入し、国鉄の鉄道建設は90%が借金によって行っていることなど、自動車産業優先・育成の施策が行われたからです。
それが、交通事故を多発させ、交通渋滞や排ガスによる環境汚染などを招いてきたのです。
また、新幹線建設や地方交通線の建設など政治的圧力や地元の要望による鉄道建設が国鉄の費用で行われたことが国鉄財政を悪化させてきたのです。
全動労は、次のような国鉄の民主的再建の方針を国鉄当局や運輸省に申し入れて運動してきました。
@ 総合的な交通政策を確立して、道路投資の比重を下げて、国鉄投資への配分を
ふやすこと。。
A 国鉄の設備投資を圧縮する。整備新幹線の凍結、安全確保と在来線の改良、サービス改善に重点をおくこと。
B 線路などの基礎施設の建設・改良への国の財政負担、国の政策による割引などの公共負担、発注契約の公正化など、公共交通機関にふさわしい費用負担の原則の確立すること。
C 「追加費用」などの軽減をはかること。
D 積極的な営業政策、サービスの向上策をとるとともに、政・財・官の癒着などに大胆にメスを入れること、など。
(4) ローカル線を守り、9万人首切りに反対、安全を守るために反対しました
分割・民営化によって、公共輸送機関である国鉄を解体し、東京・大阪をはじめとする大都市の駅周辺の鉄道用地を大銀行や大企業へ売り渡すことが予定されていました。国鉄は国民の足を確保するための公共輸送機関であり、その財産は国民の共有財産です。
国鉄の輸送機関をバラバラに解体し、その財産を大企業のもうけのために売り渡すということは、容認できるものではありません。
昭和56年(1981年)、特定地方交通線83線の廃止方針が発表され、それ以降、ローカル線の切り捨てが進められました。
ローカル線は、交通手段を持たない高校生や高齢者にとって欠かせない交通手段になっていました。「効率」を理由にこれを廃止することは、地域住民の日常的な「足」を奪うことであり、同時に、地域経済の荒廃に直結するものでした。国鉄の分割・民営化は、ローカル線の切り捨てを一層促進するものであり、これに対する不安は大きなものとなっていました。
そこで、ローカル線を守ろう、ふるさと線を守れ、という地元住民や自治体ぐるみの運動が全国で起こり、私たち国鉄労働者との共同も広がりました。
1981年の第二臨調発足以来、「国鉄職員悪玉」論、「労使国賊」論などが次々と取り上げられ、国鉄の経営悪化の原因が国鉄労働者にあるといわんばかりの報道が蔓延しました。
しかし、既に述べたとおり、国鉄の「赤字」の原因は、国の公共輸送政策そのものにありました。
国鉄の分割民営化路線は、国鉄の「赤字」の責任を覆い隠すものでした。そして、長期債務の国民負担への転嫁し、国鉄労働者9万人の首切りや国民の足である路線の切り捨てなどを柱とするものでした。
私たちが国鉄の分割民営化に反対したのは、労働組合として当然の方針でした。
(5) 「分割・民営化」の狙いと労働組合に対する攻撃
国鉄の分割民営化に際して、全動労や国労など、労働者の権利を守る方針を持ち、国鉄の分割民営化に反対した労働組合の組合員は、差別をされました。
全動労で言えば、北海道における採用率はわずか28.1パーセントでした。この裁判で10名の原告が陳述しましたが、動労組合員が100パーセント採用されていることと比較すれば、この採用比率が異常に低いことはすぐにおわかりいただけると思います。
重要なことは、この組合差別の結果が、決して結果論ではなく、当初から仕組まれていたということです。
戦後、国鉄労働組合が結成された以降、国鉄労働者は、国民生活を守るたたかいや平和と民主主義を守るたたかいで大きな役割を果たしてきました。その中で様々な分裂攻撃を受けながらもたたかいつづけてきました。こうした国鉄労働者の労働運動を変質させ、これに従わない労働組合をつぶすことが国鉄の分割民営化の狙いであることは早い段階から指摘されていました。
分割・民営化推進当時の中曽根康弘首相があとになって、週刊アエラやNHKなどで「総評を崩壊させるためにに国労をつぶす、そのために分割・民営化をした。それを明確に意識してやった」と公言しています。これは、当時、国鉄労働者悪玉論・国賊論をだいだい的に打ち出し、国鉄労働者と国民の間にくさびを打ち込み、分割・民営化をやりやすくするねらいがあったことを露骨に示しています。
したがって、国鉄の分割民営化に反対することは、ごくまともな労働組合運動を守るかどうかというたたかいでもあったのです。
4 分割・民営化に反対する運動についての全動労の方針と運動の内容
(1) 全動労は、先に述べた国鉄財政の悪化の原因をもとに、第二臨調の基本方針に対して、「国鉄解体処分に反対し、国鉄の民主的再建をめざす闘いを前進させる。そのため、利用者・国民、労働者の要求に基づき、圧倒的国民の支持・合意を可能にする政策・要求で闘うことが決定的に重要」という方針を第10回大会(1983年)で確認し運動してきました。
国鉄当局は、全動労が分割民営化に賛成せず、利用者や地域の人々と一緒にたたかってきたことに対して、特に北海道において、新会社から全動労の影響を排除するために採用差別を行ってきたのです。
反対運動は、分割民営化反対の署名、集会・デモ、自治体・国会議員要請など国民世論の力によって分割民営化を中止させることを基本にしてきました。ストライキも、輸送に直接影響を与えないように配慮して抗議の意思を込めて実施してきました。
また、私たちは、国鉄赤字論や国鉄労働者の「ヤミ手当、カラ出張、突発休」などが一方的に報道される中で、公共企業に働く労働者としての規律を自ら確立しながら、分割民営化反対のたたかいを行ってきました。
(2)全動労は、国鉄の分割民営化に反対することと団結の意思表示のためにワッペン着用を行いました。
私たちが行ったワッペン着用は、昭60年(1985年)3月1日から4月26日までと7月15日から8月5日までであり、団結権の行使として当然認められるべき行動として実施してきました。ワッペンは、それほど大きなものではなく、業務には全く影響のないものでした。
また、ストライキは、昭59年(1984年)4月、昭60年(1985年)3月、昭60年(1985年)8月、昭60年(1985年)11月の4回であり、いずれもが改革法施行以前に実施したものです。原告らの中で実際にストライキに参加した者はわずか2名にすぎません。
ストライキの規模についても、北海道内で1ヶ所で、いずれも、29分間であり、列車運行に影響のある運転士などを対象とせずに、労働組合として最低限の抗議の意志を示す行動として行いました。
5 私たちに対する差別の実態とこれを是正するためのたたかい
第二臨調が発足してから、一方的な「国鉄労働者悪玉論」がふりまかれました。そして、「職場規律の総点検および是正」と称して、「現場協議の制度」の廃止や「雇用安定協約」の破棄など、国鉄労働者の権利抑圧、雇用不安をあおり立てました。
全動労は、国民の足としての公共交通機関を守り、組合員の雇用と生活を守るため、労働組合としての当然の権利を行使して、主張し行動してきました。
全動労は、昭和57年(1982年)の第9回全国大会で、職場規律の弛緩が国鉄赤字の元凶であるかのような宣伝が行われる中で、国鉄などの公企業が国民全体の利益に奉仕する事業体であることをしっかりと踏まえて、自覚的な規律、モラルの確立にいっそう取り組む方針を確認しました。
この方針のもとに、労働者の生活破壊・権利侵害には毅然としてたたかうと同時に、公企業として国民奉仕の立場であることを明確にして運動に取り組んできました。
したがって、全動労組合員には、勤務の実績や態度について当局から批判されるような問題はなかったはずです。また、全動労は、労働者の生活と権利を擁護するという当然の立場から、国鉄当局の政策に対して批判すべき点は批判するという姿勢を貫いてきました。
ところが、国鉄当局は、全動労が国鉄の分割民営化に反対したこと、分割民営化を所与の前提とした当局の施策に従わなかったことを理由にして、全動労組合員を徹底的に差別してきたのです。
以下、その実情について、詳しく述べることにします。
(1) 職員管理調書の評定項目は、全動労組合員などを差別するためのもの
職員管理調書は、国鉄が昭和58年(1983年)4月1日から昭和61年(1986年)3月31日までを調査期間として、昭和61年(1986年)年4月2日現在の国鉄職員を対象に全国で行われた人事考課です。そして、管理調書の20項目の評定結果に基づいて、人材活用センターへの配置や新会社への採用候補者名簿に登載するかどうかなど差別の材料として使われました
。
@ 動労組合員に有利なものとした調査期間
管理調書は、「特記事項」として、「労働処分」や「昇給」など4項目についての3年間の調査をしています。
動労は、国鉄の労働組合の中で、ストライキや順法闘争などをしてきた最も過激な組織として見られてきた組合です。動労が分割民営化に反対する方針を転換してストライキをしなくなって、「労働処分」が動労に及ばなくなったのが、昭和58年(1983年)4月1日以降なのです。動労組合員が職員管理調書で低い評価となることを避けるために意図的に設定されたのがこの調査期間なのです。
A 評定項目には、管理者が主観的に一方的に評価される項目が含まれていました。
例えば、「協調性」の項目では、「業務遂行に当たり、周囲の職員と協調しているか」という設問に対して、「@利己的であるなど、他との協調に欠ける、A協調はできるが、自らの見識を持っている、B協調し、かつ自らの見識に富んでいる」の3つに評価するものです。2〜300人の職場でも、管理者は10数人で、常時職員に張り付いていることは不可能ですし、協調性があるかどうかなどを判断することのできる状況ではないのです。
さらに、「現状認識」の項目では、「国鉄の厳しい現状を認識し、業務に取り組んでいるか」という内容で設問し、分割民営化に対してどういう態度をとっているのかが評価の基本となっています。分割民営化方針に対する態度は、組織別に明らかになっていましたから、組合別の評価結果が出るようになっていたのです。
また、「職場の秩序維持」「服装の乱れ」「勤務時間中の組合活動」など、ワッペンをつけると連鎖的に評価が低くなる仕組みとなっていました。
このように、職員管理調書の評定項目は、管理者の主観的な判断による評価がなされやすいものになっており、分割民営化に反対する全動労組合員などが不利に扱われるような構造になっていたのです。
B 脱退すると評価が180度転換
全動労を脱退したものが、全員採用となっています。このことは、管理調書の評定項目は、組合を変えることにより180度変わってしまったことを示しています。 調査期間は、分割民営化の一年前の昭和61年(1986年)3月31日までの3年間でしたが、その間、脱退した者も、不採用になった組合員と同じ組合活動を行ってきました。それが、昭和61年(1986年)4月以降に全動労を脱退して、動労に加入すれば、評価が変り、分割民営化賛成の評価となり採用候補者名簿に載ることになったのです。
同じ行動をしてきた組合員が、脱退することによって、評価が180度変わったということは、職員管理調書の評定が、結局のところ、どの組合に所属しているかと言うことを基準になされたことを示しています。
(2) 「余剰人員」は作り出されたもの
本件で、被告は、全動労が「余剰人員調整策」に協力しなかったことを非難しています。しかし、そこには大きな誤りがあります。
余剰人員調整策は、「退職制度の見直し、休職制度の改定・拡充、派遣制度の拡充」の3項目であり、昭59年(1984年)6月に全動労に提示されたものです。それは、、昭和60年(1985年)度で約3万人が余剰人員になるというものでした。この数字は、地方交通線の廃止、貨物ダイヤの削減、外注化の拡大、退職者の不補充など、国鉄当局による数次の再建計画で35万人体制にするという予め決められた結論に基づいて出されたものです。つまり、意図的に作られた数字にほかならないのです。
たとえば、地方交通線の廃止について言えば、地元住民の反対にもかかわらず、昭和58年(1983年)から、全国83線の廃止を行い、公共の福祉の増進の役割を放棄して強行しました。また無人駅の拡大やホーム要員の削減、車両検査修繕や設備保守などの簡略化など安全輸送の重要な分野でも人減らしを強行しました。こうして無理矢理生み出されたのが、「余剰」なのです。
全動労は、「余剰人員調整策は、政策的に国鉄分割・民営化の前提条件づくりを目的としたものであり、職員の雇用不安をもたらし、事実上の首切りにつながるもの」として、労働組合として、公共性を守り、雇用と生活を守る立場で反対の態度を表明しました。これは、労働組合としては当然の方針だと確信しています。
ただし、具体的な調整策の実施については、機械的に反対することはせず、国鉄当局と交渉を重ねた結果、実施にあたっては、「強制をしないこと、本人の意思を尊重する」ことなどを申し入れて受け入れたのです。ですから、調整策に「協力しなかった」という被告側の主張は経過を正しく捉えていないものです。
(3) 企業人教育について
企業人教育は、昭61(1986)年4月3日から5ヶ月間にわたって実施されました。企業人教育は、分割・民営化を進めやすくするために、労働組合を弱体化し分裂させる目的で行われたことは明白でした。> 企業人教育の目的は、「民間マインドを取り入れること」を目的に、主として出向・派遣に出なかった職員を対象に、2泊3日、鉄道学園に入れて教育するというものでした。教育内容は、「職員に企業人意識とその行動力を身につけさせる」ものでした。
そこで、全動労は、企業人教育に反対する立場を明らかにしました。そのうえで、実施にあたっては、最終的には「本人同意」により行うよう申し入れました。また、全動労は、「企業人教育は国鉄の分割・民営化を前提としたものであり、労使間の交渉ないし協議事項である」として団体交渉を求めましたが拒否され、一方的に実施されてしまいました。
受講については、本人の希望によるとなっていましたが、実際には、管理者による推薦によって人選が行われました。すなわち、企業人教育の実施に当たっても、本人が希望するかどうかとは全く無関係に、管理者による一方的な選別が行われたのです。
しかも、企業人教育実施以降、企業人教育を受講した職員や管理者が中心となって、国鉄改革のための学習グループと称するインフォーマル組織が各地でつくられ、国鉄内に分割民営化推進の動きを作り出す役目を果たしました。
(4) 広域異動は、本州の労働者の仕事を奪うもの
広域異動は、昭61年(1986年)3月に全動労に提示され、動労等との合意により、一方的に第一次募集が実施されました。
しかし、広域異動もまた、作られた「余剰人員」を前提とするものでした。そのうえ、異動先の首都圏などの全動労や国労組合員が「余剰」とされ、排除することにつながるという問題をもっていました。したがって、全動労としては、この施策に積極的に賛成するわけにはいきませんでした。
ただし、「余剰人員」調整策と同様、実施にあたっては機械的な対応をすることはせず、同年11月に本人の意向を尊重するように申し入れて覚書を締結しました。
しかし、全動労組合員の応募に対しては、管理者らが、全動労組合員のままでは異動できないという言動を繰り返したため、脱退して応募する組合員が出てきました。全動労組合員の中に、自ら選んだ労働組合の所属を変えてまで異動に応じることはできないという声が広まったことは当たり前のことです。
(5) 人活センターは、全動労・国労にいればこうなるという見せしめ
昭61年(1986年)7月1日、「所要を上回る人員(余剰人員)を可能な限り集中的に配置し、効率的な運用ないし今後の事業の活性化に備えて、新事業分野の展開に努めたり、職員の多様化を図ること」を目的として、「人材活用センター」が設置されました。
北海道総局での配置総数は484名で、労働組合別では、全動労292名、国労69名、動労120名となっています。このうち、動労の組合員の「配置」は、転換教育へ行くための一時的なものであり、差別扱いの批判をかわずための「配置」でした。全動労は、組織割合に比べると20%を越えており圧倒的多くなっています。
人活センターでの仕事は、「効率的な運用や事業の活性化、多様化など」の目的とは全然離れたもので、乗務や検査修繕の本来の仕事を奪って、炎天下の草むしり、便所掃除、文鎮作り、キリギス取りなど、輸送業務からかけ離れた内容のもので、収容された者の、労働意欲を減退させものでした。全動労にいれば、こうなるという見せしめのために行われたとしか言いようがありません。実際に、この仕打ちを見て、全動労を脱退する者も出てきました。
人材活用センターの設置は、分割・民営化に反対する全動労や国労組合員をねらい打ちにして、労働者としての尊厳をふみにじり、精神的・経済的に大きな打撃を与えるものとなりました。
(6) 労使共同宣言は、労働組合の存在意義を自ら否定するもの
国鉄は、昭61年(1986年)1月、全動労に対し、第一次労使共同宣言の締結を要請しました。その内容は、「諸法規の遵守、リボン・ワッペンの不着用、合理化への協力、余剰人員対策への協力」等を内容とするものでした。
これに対し、全動労は、労使共同宣言が、労働者や労働組合の諸権利を放棄するもので、労働側には何も得るものがないことを明らかにして、受け入れませんでした。全動労は、労使対等の関係の中でこそ、労働者の生活と権利を守ることができる基本的立場を維持してきたのです。
憲法で保障された労働者と労働組合の権利の放棄を迫る労使共同宣言の締結を迫り、これに応じなかったからと言って非難するというのは、絶対に許されることではありません。
6 分割・民営化から20年後の現状はどうなっているか
分割民営化は「成功」したと宣伝されています。しかし、その内実をみると、分割民営化の際に懸念された矛盾は一向に解決していません。それどころか、いっそう矛盾が大きくなっています。
(1) 増え続けた長期債務、結局は国民に負担おしつけ
昭和62年(1987年)年の分割民営化時には、国鉄の長期債務は約25.5兆円でした。それが、平成10年(1998年)には、約28.3兆円まで膨れあがりました。これは、この間、土地の売却約6.7兆円、JR株の売却約2.9兆円という、国民共有財産を売り払っての結果です。
そして、たばこ税に上乗せをしたり、郵便貯金利子から5年で1兆円繰り入れるなどして、20兆円を一般会計で60年かけて処理するなど国民から見えない方法で、国民に負担を押しつけているのです。これは、分割・民営化の目的が破たんしていることを物語っています。
(2) 大儲けのJR本州3社とJR三島会社・貨物会社の経営難
JR本州3社は、毎年2千億円をこえる経常利益を上げて、株主優先の経営を続けています。東京・名古屋・大阪などの大都市を中心に営業を拡大して大儲けをしています。そして、JR東日本の株式400万株は、80%以上が金融機関・証券会社・外国法人などが握っており、年間200億円以上の配当金を分け取りしています。私たちは、分割民営化は、大企業による国民の共有財産の分け取りだと批判してきましたが、そのとおりになっているのです。
他方、三島会社(北海道、四国、九州)は、約1兆3千億円の経営安定基金の運用利子と税軽減策と人減らし・低賃金でようやく経営を維持しています。また、貨物会社も、税軽減や線路使用料低減などの措置と労働者の低賃金によって経営を維持しています。
これら、三島と貨物会社の労働者は、本州三社の労働者と比較すると、夏冬の一時金で数十万円の差がついており、極端な低賃金を押しつけられています。これが分割・民営化による労働条件の実態です。
(3)安全面での問題
国鉄の分割民営化後、42名の犠牲者を出した信楽線事故、107名犠牲の福知山線事故、5名の犠牲者を出した羽越線事故などの大事故が続いています。これは、儲け本位の経営方針によって、安全輸送が軽視された結果にほかなりません。
こ
の点について、JRになって「事故」減ったとよく宣伝されていますが、これは事実を反映したものではありません。「事故」発生数を少なくする操作が行われた結果にすぎません。
例えば、国鉄当時は、旅客列車であれば10分以上の遅れが「事故」となりましたが、JRとなってからは、30分以上の遅れを「事故」として扱うようになりました。物損事故でも、それまで50万円以上の損害が「事故」扱いとなっていたものを500万円以上の損害とならなければ「事故」扱いにしなくなったのです。
実情を見ると、JR東日本では、「事故」として扱わない「輸送障害」が、1987年には、1441件だったのが、2004年には、3507件と2.5倍に増えているのです。この数字は、国土 交通省への報告分だけですから、実際にはもっと多くなっています。
JRの儲け本位の経営施策によって、安全確保に必要なホーム要員や線路・電気・車両などの点検・保守要員が減らされ続けています。このため、日常的に大事故の危険性が危惧されています。
(4)JRでは今でも組合差別が続いている
JRとなって20年が経ちましたが、全動労組合員に対する差別はいまだに続いてます。
当初は、運転士の仕事をしていた者を売店や食堂に配置したりしていました。今でも駅や工場にまわしたりしています。清算事業団から広域採用でJR東日本に採用された者についても、今でも運転士の仕事をさせないなどの事態が続いています。
また、昇給や昇格でも旧動労などには特別な待遇をしたり、定年後の嘱託社員の採用についても差別をして、全動労組合員に対する救済命令が地労委で出されている事態がまだ起こっています。
7 採用差別に対する全動労の要求と方針、
地労委命令から最高裁判決までの経緯について
(1) 全動労は、国鉄が行った数々の不当労 働行為の責任は、JR会社にあることを主張し、JR会社に戻すことを一貫して主張してきました。
国鉄「改革法」の国会審議のなかで、政府は、「労働組合所属による差別はわない」「一人も路頭に迷わせない」と繰り返し答弁し、説明してきました。
私たちはそれを信じておりましたが、国鉄当局は、全動労にいてはJRに採用されないなどとして脱退工作を行い、組合員に対して見せしめ的に人材活用センターに収容するなどして、組織の団結を破壊する攻撃を行ってきました。このような卑劣な攻撃の中で、生活を守るために多くの組合員がやむをえず組合を脱退していきました。全動労の方針に反対だとか、ついていけないという理由で脱退した組合員はいません。
そして、全動労に残った組合員に対しては、組合所属を理由とする採用差別が公然と行われたのです。
私たちは、採用差別に対して、北海道地方労働委員会に対する不当労働行為救済命令の申立を行い、国鉄の鉄道業務を引き継いだJRに雇用を求めてたたかってきました。
なぜなら、国鉄の鉄道業務はそのままJRに承継されており、採用差別はJRが行った解雇にほかならないからです。また、国鉄改革法の国会審議においても、政府は、国鉄はJRの設立委員の「代行」だとか「補助者」だといった表現を使って、国鉄が組合差別を行った場合の責任は当然JRが負うという趣旨の答弁をしていました。ごく常識的に考えれば、国鉄が組合差別をしたときにJRが責任を負うべきだというのは当たり前のことなのです。
労働委員会は、この常識的な考え方にたってJRに不当労働行為救済命令を発しましたが、裁判所は不当にも命令を取り消す判断を行い、2003年12月22日の最高裁第一小法廷の判決では、3対2の1票差で救済命令の取り消しが確定しました。
地労委申立から最高裁判決に至るまでの経過は、以下のとおりです。
○昭和62年(1987年)12月 北海道地労委に申し立て
○平成元年(1989年)3月
北海道地労委 命令交付
○平成6年(1994年) 2月 中労委命令交付
○平成12年(2000年) 3月29日
東京地裁判決 (高世裁判長) 中労委命令取り消し
○平成14年(2002年) 10月24日 東京高裁判決 (村上裁判長)
控訴棄却
○平成15年(2003年)12月22日 最高裁判決 上告棄却
(2)救済命令を取り消した裁判所の判決の不当性について
既に述べたとおり、JRが国鉄の鉄道業務をそのまま引き継いだという事実やJRと国鉄の関係についての国会答弁を素直に見れば、国鉄が採用候補者名簿の作成にあたって不当労働行為を行った場合に、JRが使用者として責任を負うというのは、ごく当たり前の結論です。最高裁は、1票差でJRの使用者責任を否定しましたが、多数意見と反対意見を読み比べれば、反対意見の方がはるかに説得力のある意見となっています。
私は、この機会に、裁判所がきちんとした判決を出していれば、採用差別事件の解決がここまで引き延ばされることはなかったということをあらためて強調したいと思います。
ところで、全動労事件の東京高裁判決(村上裁判長)は、はじめてJRの使用者責任を認めながら、国鉄の分割民営化を『国是』と位置づけ、一貫して『国是』に反対した労働組合の組合員が差別されても当然といわんばかりの判断を示しました。本件でも、被告が同様の主張を行っているようですので、この点について簡単に触れることにします。
そもそも労働組合は、使用者と対等平等の関係を保つために、憲法で「団結権・団体交渉権・団体行動権」を保障されて、自らのさまざまな労働条件や暮らしを守り、民主的権利や平和に生活できるようにたたかっている組織です。従って、雇用・生活・民主主義・平和を守るためには、使用者の提案や政府の施策に反対し抗議する運動をすることはよくあることです。使用者や政府の言っていることだからといって反対できないというのでは、そもそも労働組合の存在意義がありません。
にもかかわらず、『国是』に反したからという理由で、不当労働行為責任を帳消しにすることは、太平洋戦争に反対するものを「治安維持法」によって弾圧したことと同質の考え方であると言わざるを得ません。
しかも、国鉄の分割民営化は既に実施されていますが、分割民営化に賛成か反対かの国民世論は二分し、国鉄の分割民営化反対の署名は、3,512万筆(1986年2月)を超え、全国850の自治体でも反対もしくは慎重にすべきであるという決議が行われているのです。国民の中に、分割民営化反対や危惧をもった意見が大きく広がっていたことは明らかです。
そして、国鉄改革法の成立にあたっては、政府が国鉄職員を「一人も路頭に迷わせない」と約束し、分割民営化に反対したからといって、組合差別を行ってはならないことが再三確認されているのです。
以上のとおり、国鉄の分割民営化に一貫して反対したから差別されても当然だなどという論理は全く通用しません。むしろ、そのようなことを主張すること自体が国会審議で確認された立法者の意思に反するものにほかなりません。
8 なぜ、被告を相手にした損害賠償請求訴訟を提起したのか
JRによる採用差別以降、私たちは、一貫してJRへの採用と復職を求めてたたかってきました。
残念ながら、2003年の最高裁判決によって、JRの不当労働行為救済命令の取消が確定し、JRに対して法的に雇用を求める道が閉ざされてしまいました。しかし、私たちは、不当な判決にもかかわらず、JRが雇用責任を負うべきであると確信していますし、現在でも、JRに雇用責任を果たすことを求めています。
2003年の最高裁判決は、JRの不当労働行為責任を否定する一方で、国鉄が採用候補者名簿作成の過程で不当労働行為を行った場合、その責任は国鉄(現在の被告)が負うことを明示しました。これほど明白な組合差別が行われたという事実があるのに、その責任を誰も負わないということが許されるはずがありません。
そこで、私たちは、最高裁判決が出されてJRに採用をさせる法的な道が閉ざされたことを踏まえ、不当労働行為を行った国鉄の責任を明確にし、不採用による損害の賠償を求めて本件訴訟を提起することにしたのです。
国鉄の分割民営化から20年。被解雇者と家族は、採用差別というぬぐいさることの出来ないレッテルを貼られ、その上、深刻な経済状態に見舞われました。日々の安定した生活やまともな教育を受けさせることが出来ないような困難な生活続づけることを余儀なくされてきました。そして、この間5名の被解雇者が解決をみることなく、他界してしまいました。私も本当に残念で悔しい思いでいっぱいです。
差別を行った国鉄(現被告)の責任を明確にし、被解雇者らに対して賠償させる判断をすることは、裁判所としての最低限の責任ではないでしょうか。
裁判所が事実を正面から受け止め、今度こそ道理ある判断をされるよう心から要請する次第です。
以 上